
【第2回】イメージ戦略を駆使した名将・武田信玄
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加来耕三氏 歴史家・作家。1958年生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。1983年より著作活動に入る。著書に『徳川三代記』(ポプラ社)、『将帥学』『後継学』『交渉学』『参謀学』(いずれも、時事通信社)『加来耕三の感動する日本史』(ナツメ社)など多数。最新刊に『関ヶ原大戦』(学陽書房)がある。 |
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インターネット全盛のご時世、GoogleやAppleなど、情報のプラットフォームを握ったものが世界を握っています。日本はこの現状に出遅れている感が否めませんが、これまでの日本史上の人物で情報をうまく活用して成功した人物はいなかったのでしょうか?
日本が騒然としていた戦国時代、様々な戦国大名や武将がしのぎを削りました。彼らの情報活用術に学ぶべきところを見出すべく、作家の加来耕三氏に解説していただきます。第2回は、武田信玄が使った「イメージ戦略」を紹介します。
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イメージ戦略を地道に築いた武田信玄 武田晴信[信玄]画像(伝) 東京大学史料編纂所所蔵模写 |
天文10(1541)年、甲斐(現・山梨県)の守護・武田信虎は国内の土豪たちと今川家の謀略により、国外へ追放されてしまう。ときに、48歳。この時、信虎の嫡子・晴信(のちに、号して信玄)は21歳であった。
便宜上、担がれて国主の座についた信玄であったが、その実体は飾り物にすぎず、その命令が通用したのは、せいぜい3里(約12キロ)四方でしかなかった。
信玄はこの境遇を、どのように脱し、自らのカリスマ性を築いたか。
合戦そのものは老練な国人衆に任せ、自身はむしろ、治水政策を進めるかたわら、「甲州法度之次第」と名づける刑法・民法・商法などを一括した、独自の家法(家の掟)を制定した。ときに、信玄27歳。
法度を整備することにより、ようやく国人合議の席に参加しえた信玄は、生涯を通じての軍事的方針=戦わずして勝つ、を次第に明確化していく。
後世に伝えられた信玄の名将ぶりは、最晩年のものにすぎない。
何よりも敵情視察や内部攪乱といった、情報重視の戦術を採用した。
江戸時代のベストセラー小説ともいうべき『甲陽軍鑑』には、稀代の軍師として山本勘助(一説に“勘介”)という人物が登場するが、この人物が行ったとされる数々の事績については、各々を分担した無名の、多くの武田系情報将校がいたのであろう。
新規召し抱えの家臣のみならず、諸国をめぐる兵法者、山伏、歩き巫女(みこ)、傀儡師(くぐつし)、高野聖(こうやひじり)といった人々から、諸国の内情や地理、諸大名・家臣の能力、家政の状況など、信玄は可能なかぎりのデータを、積極的に入手している。
そして、侵略すべき先方の国状を偵察して、そのウィークポイントを探す。主君が暴君であれば部将=国人衆をひき込み、国人のなかに優れた人物がいれば、まず味方に誘った。拒絶されれば一転、誹謗中傷の情報を流して、その人物が力量を振るえない状態に貶めた。そして内乱を誘発させ、共倒れの寸前にまで追い込んだのちに、甲州軍団を出撃させたのである。
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