寄稿
情報戦を制した戦国武将たち
作家 加来耕三
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2011/10/11  2/2ページ

【第2回】イメージ戦略を駆使した名将・武田信玄


RPAツール・AIHH

無敵軍団の真相

 むろん、信玄は軍団をいかに強くみせるか、“無敵”を演出し、宣伝することにも努めている。


 信玄の時代、戦場での主力はすでに騎馬ではなく、徒歩で戦場狭しと走り回る足軽の集団となっていた。


 彼らは騎馬隊がやって来るのを待ち伏せ、斬馬刀(ざんばとう)とよばれる薙刀(なぎなた)の一種を手に持って、馬脚をすくい、落馬する武士を寄ってたかってなぶり殺しにするのが、当時の足軽戦法となっていた。したがって甲州軍団でも、騎馬武者1騎には複数の足軽がつき従っている。


 にもかかわらず、甲州軍団=騎馬隊のみと連想するのは、すべて信玄の仕掛けたイメージ、トリックであったといってよい。


 素早く相手勢力の情報を察知し、対応策を練り、戦場に赴くまでには、敵陣営を内訌させて、自爆に追い込んでおく。あとは、スピードのみ――。


 加えて、甲州軍団の中には装備を“朱”に塗りつぶした“赤備え”と称される、戦国時代最強を謳われた集団があった。


 彼らは精強で鳴る武田武士の中で、さらに選りすぐられた将士であり、いかなる戦局に臨んでも、けっして後退することのない、決死の一軍であった。


 信玄の晩年、敵対する勢力はこの“赤備え”が戦場に出現すると、それだけで恐怖が先に立ち、戦わずして退き逃げるようになったという。


 名将信玄は脆弱(ぜいじゃく)な基盤からスタートし、情報戦略、イメージ戦略を駆使して名実ともに“天下無敵”を称された武将となった。


 もし、隣国に天才戦術家の上杉謙信が同時代に存在していなければ、あるいは今少し余命があれば、信玄は誰よりも早く上洛を果たし、天下に号令したことであろう。天正元(1573)年4月、上洛戦の途次、三河在陣中に病を発したこの名将は、帰路の途次、信州伊那郡駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)でこの世を去った。享年は53である。


【武田信玄】1521年~1573年
信玄のカリスマ性は、国人衆を取りまとめるための法律整備や土木事業、情報収集などの際限ない努力から生まれました。その結果「赤備え」「騎馬隊」など「武田軍団最強」のイメージを植え付けることに見事成功しました。これは、信玄亡き後を継いだ武田勝頼が織田信長に合戦を挑んだ時、信長は迎撃のため、一説に世界史上初の3000挺という、大量の鉄砲を使用したともいわれる長篠の戦いに表れています。

(編集担当:中西 啓)

>>次回は、一兵卒から大名へ出世した藤堂高虎

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