ぶらり東京散歩 こんな所にいた! 歴史人 
森孫右衛門(1569~?)

ぶらり東京散歩 こんな所にいた! 歴史人

森孫右衛門(1569~?)

2014/9/22

 太田道灌が建て、時を経て徳川家康が大都市に育て上げた江戸・東京。今では世界屈指の大都市として発展を遂げている。とは言え、400年前に徳川家康が故郷である三河から江戸に領地を鞍替えした際、江戸はひどい田舎。現在の日比谷や銀座より東はほとんど浅瀬だったという。江戸城の堀を作る際に出た土や、神田付近にあった山を切り崩して、埋め立て地を作った。家康が開墾し街として急速に発展していく中、急速に増える人口を養うのに必要だったのが食糧だ。

 江戸にはすぐ近くに、現在でいうところの東京湾という魚介の豊富な食料庫がある。ところが、江戸近辺の漁師は一本釣りが普通で、それでは江戸の増える人口を養うことは無理だった。そこで家康は当時最先端の漁業技術を持った漁師33人を摂津(現在の大阪府大阪市)の佃島から連れてきた。その33人のリーダーとも言える名主だったのが森孫右衛門(もりまごえもん)だ。

築地本願寺には森孫右衛門の供養塔がある
築地本願寺には森孫右衛門の供養塔がある

家康に指名された漁師

 

 1582年、織田信長が本能寺の変にて明智光秀に殺害される。このとき信長の盟友でもある家康は本能寺とは目と鼻の先になる堺の街を見物中であり、明智軍に見つかれば間違いなく殺されていた。そんな中、家康は命からがら自分の領地である三河に帰還する。必死の逃避行の際、水路や糧食の確保などを行ったのが孫右衛門ら佃島の漁師たちだった。戦国時代の漁師はただ魚を獲るだけではなく、自分の漁業圏の権益を守るために武装する海軍的な性格もおびていたとも言われる。


 家康はこうした功績を挙げた孫右衛門に対して、森という姓のほか様々な特権・褒美を与えた。白魚という高価な魚の漁業権(白魚の模様が葵御紋…徳川家の家紋に似ていたため基本的には禁漁だったと言われている)、江戸近郊全般での漁業権、税金の免除、武家屋敷への出入り許可などなど。こうして森孫右衛門ら摂津の漁師がもらった褒美の1つが当時まだ浅瀬だった佃である。


森孫右衛門が現在に残したもの


 漁師たちは浅瀬を埋め立てて、故郷である佃島の名を付けた。これが現在、東京都中央区にある佃の地名の由来である。現在の佃では、白魚は取れないが、釣り船が停泊しており、その名残を感じることができる。また江戸時代に特権を貰った漁師たちは漁獲した白魚を徳川家に献上するようになった。この「白魚献上」の習慣は、何と現在も続いている。毎年3月1日には佃漁業組合が、徳川家当主に白魚を届けているという。東京湾ではもはや白魚は獲れないため、届けている白魚は東京湾産ではないが…。

日本橋にある記念碑
日本橋にある記念碑

 もう1つ。森孫右衛門らが、今にも伝わって残したものは魚河岸だ。魚河岸とは、いわゆる築地にある魚市場の通称だが、東京湾で獲れた魚を売るための仕組みは彼らが作ったものだ。江戸時代の魚河岸は日本橋付近にあり、江戸の民の腹を満たしていた。日本橋には魚河岸の記念碑もある。決して有名人という訳ではないが現代に残したものは多い森孫右衛門。ぜひその足跡に思いをはせてほしい。

(井上宇紀)
孫右衛門ゆかりの地(クリックすると拡大します)
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