ぶらり東京散歩 こんな所にいた! 歴史人 
服部半蔵(1542~1596)

ぶらり東京散歩 こんな所にいた! 歴史人

服部半蔵(1542~1596)

2014/8/7

 東京の地下を無数に縦断する地下鉄。東京には東京メトロが運営する路線が9路線ある。そのうち、7番目にできた半蔵門線の名前は、皇居の門の1つである「半蔵門」から名前を借りている。

 この「半蔵門」の由来には諸説あるが、最も有力な説は、あの「服部半蔵」の屋敷が近隣にあったため、と言われている。服部半蔵と言えば「忍者」と言って真っ先に思い浮かべる人も多いだろう、実在の人物だ。

現在の半蔵門。平時は閉ざされているが、稀に多くの警察車を
引き連れたVIPが出てくることがある
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忍者の起源

 

 忍者の起源は奈良時代まで遡る。伊賀・甲賀は、山間の小さな村ばかりだったが、平安時代末期になり、貴族の支配が薄れると、こうした山間の村が独立、争いが絶え間なく続くようになった。互いが村の詳細を知り尽くしているため、奇襲、ゲリラ、少人数でのかく乱が戦術として取り入れられ、後の忍術の基礎となった。


 伊賀・甲賀は土地がやせており、農作業には向かない土地柄だった。そのため、戦国時代になると忍者を傭兵として各地に売り出していった。こうして出稼ぎに行った忍者として最も有名なものが伊賀流の使い手であり、徳川家につかえた服部一門だ。


 「服部半蔵」は、継承される名前のため実際には複数の服部半蔵がいるが、一般的に認識されている服部半蔵は、徳川家(厳密には服部一門が仕え始めたときは松平家)に仕えた服部保長の4男にあたる2代目服部半蔵・正成のこと。父の代から仕えているため、2代目服部半蔵は、家康の領土である三河(現在の愛知県)で生まれている。


実は忍者ではない服部半蔵


 忍者の棟梁として有名な服部半蔵正成は、実は忍者ではない可能性が高い。三河国(家康の領土)で生まれた半蔵は武士として育っているからだ。伊賀衆という忍者を預かる言わば「忍者の棟梁」ではあったが、忍者というよりはむしろ武士として生きている。武士の半蔵は、鬼の半蔵と言われ、槍の名手だったと伝わっている。


 服部半蔵の功績で有名なのが「伊賀越え」だ。織田信長が明智光秀に本能寺で攻め滅ぼされた際、徳川家康は少ない供と堺の街を見学していた。本能寺と堺の街は近く、明智光秀に攻められれば家康に逃れるすべはなかった。


 生き残るために家康は、本拠地である三河まで帰る必要があり、その最短ルートに「伊賀」があった。ところが伊賀は、家康の盟友である織田信長に滅ぼされた過去があり、普通に考えれば家康との関係は最悪であるはずだった。


 しかし家康が信長との戦いから落ち延びた伊賀人をかくまったこと、そして何より伊賀でも有力な一族であった服部氏の家督を継ぐ半蔵が伊賀の里へ口利きをしたことから、家康は伊賀をすんなりと抜けて、逃げ延びることができた。


 こうした働きもあり、服部半蔵は家康の十六神将(特に功績が高かった16人の武将)として数えられ、江戸城近くに屋敷を構える。単純に江戸城の門に近いところに屋敷があったから半蔵門とついたのではない。こうした家康からの信頼があったからこそ、今でも名前の残る地名としてつけられたのだ。

忍秘傳。忍者が使う道具について細かく説明している
忍秘傳。忍者が使う道具について細かく説明している

 服部半蔵の著作とされる書物がある。「忍秘傳(にんぴでん)」という伊賀流忍術について書かれた書物だ。写本も稀少本のため閲覧は難しいが、忍者の道具や心得について詳しく書かれている。新宿の西念寺には服部半蔵の墓があり、愛用の槍が残されている。400年以上前になくなった人物であっても、探せばこうした息吹を感じることができるものだ。

(井上宇紀)
服部半蔵ゆかりの地(クリックすると拡大します)
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