ぶらり東京散歩 こんな所にあった! 歴史的事件
東京駅首相暗殺現場

ぶらり東京散歩 こんな所にあった! 歴史的事件

東京駅首相暗殺現場(1921、1930)

2014/7/10

 東京駅。

 世界屈指の大都市・東京のコアターミナルのひとつとなる駅。皇居に向かう丸の内口、新規開発された八重洲口と東西に大きくわけて2つの出口を持ち、毎日20万人弱の乗降客がいる巨大駅。その駅の床にポツリとつけられたマークを知っている方はいるだろうか? これは戦前の東京駅で起きた事件の跡なのだ。

駅の床に記されたマーク
駅の床に記されたマーク

 1921年。立憲政友会所属の首相・原敬が、現在の丸の内南口の改札付近で、暗殺された。1930年には同じく東京駅の現在でいう中央通路付近で濱口雄幸首相が銃撃され、その翌年に怪我がもとで亡くなっている。人が無数に行きかう東京駅には、こうした戦前の激動もひっそりと刻まれている。


原敬首相。相当な政治的手腕を持ったやり手だったと伝えられる
原敬首相。相当な政治的手腕を持ったやり手だったと伝えられる

平民宰相・暗殺


 原敬は1856年盛岡藩で生まれた。首相になった際には「平民宰相」と呼ばれるが両親は武士の家柄。成人後に分家して平民籍になっている。新聞社や外務省への勤務を経て、1900年に立憲政友会に入党。1918年には、米騒動で辞任に追い込まれた寺内内閣が総辞職。立憲政友会の党首として首相に任命されるという、日本で初の本格的な政党内閣を組閣する。


 1921年11月4日。原敬は、立憲政友会の大会に向かうため、東京駅の改札口へと向かう途中、右翼の青年・中岡艮一(なかおかこんいち)に暗殺される。中岡は、原が首相になってから行った財閥などに利益を誘導するような政策、普通選挙法への反対、ロシアによる日本人約700人を含む住民虐殺事件「尼港(にこう)事件」への対応などに不満があったと伝えられる。


 中岡が暗殺に使った短刀は、原の胸部に深く突き刺さった。この一撃は致命傷となり、原はほぼ即死。中岡は、殺人罪で無期懲役の判決を受けるが恩赦により1934年には出獄している。


濱口首相。銃撃者は軍縮政策に不満を持っていた
濱口首相。銃撃者は軍縮政策に不満を持っていた

ライオン宰相・銃撃


 現在の高知市で1870年に生まれた濱口雄幸は、帝国大学(現・東京大学)の法学部を卒業したあと、大蔵省、大蔵次官を務め、1915年、衆議院議員選挙に当選。1929年に立憲民政党の総裁として首相に就任する。


 ひげを生やした容貌と、政治において根回しを使わずに正面突破をする豪胆な性格から「ライオン宰相」とあだ名されるようになる。国民からはどちらかというと慕われた首相だが、経済政策では失策が続き、また強く軍縮を押し進めたため、軍部からは評判がよくなかった。


 1930年11月14日。神戸で行われる陸軍演習の視察に行くため東京駅に向かった濱口は、ホームを移動中、右翼活動家の佐郷屋留雄に銃撃される。濱口は大手術を受け一命を取り留めるが、その後、鳩山一郎ら野党からの度重なる登壇要求に応えるうちに、再び体調を悪化。翌1931年4月に退陣し、8月には帰らぬ人となった。

原首相の暗殺現場   濱口首相が銃撃を受けた現場
原首相の暗殺現場   濱口首相が銃撃を受けた現場

事件の跡…


 原首相の暗殺現場は、丸の内南口の切符売り場付近。改札の外にあるため、簡単に立ち寄ることもできる。濱口首相の銃撃現場は、駅構内中央通りから新幹線への改札へ登る階段手前。どちらも近くに事件の経緯を説明するプレートが設置されている。現場に足を運んでみると、平和で雑多とした現代から、激動を生き政治に命を懸けた熱い男たちの生き様が見えてくる。

(井上宇紀)
原敬、浜口雄幸 遭難現場(クリックすると拡大します)
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