ぶらり東京散歩 
こんな所にいた! 歴史人
田河水泡

ぶらり東京散歩 こんな所にいた! 歴史人

田河水泡(1899~1989)

2014/6/19

 100万都市と言われるほど、多くの人が暮らす場所だった江戸。明治維新後に「東京」と名を変えて以来、震災・戦争を経てその姿を大きく変えて現代に至っている。

 このシリーズでは、下町に息づく著名人たちの横顔から、歴史を巡る。今回は、昭和の大ヒット漫画「のらくろ」シリーズを生みだした田河水泡(たがわすいほう)。彼が青年期まで過ごした深川での足跡をたどっていく。

のらくろ館の入り口
のらくろ館の入り口

本所生まれ、深川育ち


 「のらくろ」シリーズの連載が始まったのは1931(昭和6)年、今から80年近く前である。戦後にリバイバルブームが来たが、それも1960年代だ。


 「のらくろ」を生みだした田河水泡は、1899(明治32)年、東京市本所区林町(現・墨田区立川)に生まれた。しかし、水泡が1歳の時に母がなくなり、2歳で父が再婚したため、深川区松村町(現・江東区福住)に住んでいた伯母(父の姉)夫婦のもとで育つ。


 この伯母夫婦は長屋の大家さんで、比較的裕福な暮らし向きだったという。店子(借り主)が「家内が病気で稼げなくて…」と家賃未納の言い訳をすると、「これを薬代に」と言って家賃の催促どころかお金を渡す。「落語そのままの世界だった」と水泡は後に振り返っている。


 水泡は、通っていた臨海尋常小学校のすぐそばにあった空き地で、バッタやトンボを取って遊んでいたという。今の越中島付近の水辺だ。江戸っ子の生き様を見ながら、田舎の子供のように遊んだ幼少期であった。


 そんな水泡に絵の影響を与えたのは、伯父や従兄だ。伯父の佐藤藤助は南画(水墨画のようなもの)を趣味としていたし、従兄の高見澤達治は、水泡が小さい頃に油絵の道具を持って遊びに行っていた。18歳の時に達治から絵画道具一式をもらったのが、漫画家となるきっかけとなったようだ。

水泡が幼少期に遊んだ越中島
水泡が幼少期に遊んだ越中島

落語作家を経て漫画家に


 20歳の時に徴兵されても、暇を見てはスケッチをしていたくらい絵に没頭していた水泡だったが、メディアへのデビューは「落語」だった。本名の高見澤仲太郎をもじった「高澤路亭」というペンネームで、雑誌「面白倶楽部」に創作落語を載せる。


 幼少期に過ごした深川の雰囲気が、水泡を落語好きにさせ、ついには創作落語まで執筆できるような土台を作ったのだろう。


 その後、28歳で深川から離れ、「目玉のチビちゃん」で漫画家デビュー、32歳の時に雑誌「少年倶楽部」で「のらくろ二等卒」の連載がスタートした。


 「のらくろ」シリーズは、主人公・野良犬黒吉(通称「のらくろ」)が、ドジを踏みながらも階級が上がっていく物語だ。のらくろのネーム(漫画の台詞)では落語のようなサゲ(オチ)が使われるなど、随所に落語の影響がある。当時からすれば軽妙なギャグ漫画であったため、1年で連載終了だった予定が、伸びに伸びて11年間続いた人気漫画となった。


 戦後、全集が出版されたり、アニメ化されたりして、戦前の人気が復活した。「サザエさん」の長谷川町子など多数の後進も育成した漫画の巨人が息を引き取ったのは1989年。昭和が終わりを告げた年だった。

のらくろが当時のまま読める
のらくろが当時のまま読める

水泡を読む


 清澄白河駅を降りて、清澄通りを両国方面へ向かうと、高橋(たかばし)商店街が右手に見えてくる。アーケードはのらくろ一色。商店街をしばらく行くと、右手にあるのが「田河水泡・のらくろ館」だ。


 この施設の目玉は、「のらくろ」関連の展示物もさることながら、漫画喫茶顔負けの漫画のラインナップをそろえていること。「平日の午後は子どもたちがたむろしていますよ。漫画を読まずにゲームをしていますけど」と、のらくろ館を運営している江東区森下文化センターの小林徹氏は苦笑する。


 また、著名な漫画家を招待した講演会を随時行っている。HPをチェックして、気になる出演者がいたら足を運ぶのもいい。


 水泡の通った臨海尋常小学校は、江東区立臨海小学校として今も残っているものの、近くで遊んだ「原っぱ」も今はない。往時を偲ぶことができるのは限られているので、のらくろ館の漫画を読みあさって、「のらくろワールド」にのめり込んだ方がいいのかもしれない。

(中西 啓)
田河水泡ゆかりの地(クリックすると拡大します)
(クリックすると拡大します)
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