ぶらり東京散歩
こんな所にいた! 歴史人
松尾芭蕉

ぶらり東京散歩 こんな所にいた! 歴史人

松尾芭蕉(1644~1694)

2014/5/26

 江戸時代、町人たちが多く暮らす場所だった下町。震災、戦争を経て巨大都市になった東京で、その風情を残す場所も限られてくるようになってきた。


このシリーズでは、下町に息づく著名人たちの横顔から、歴史を巡る。初回は、江戸初期の俳人・松尾芭蕉だ。

芭蕉記念館から隅田川を望む
芭蕉記念館から隅田川を望む

29歳で江戸に移住


 都営大江戸線・都営新宿線の森下駅から徒歩7分、芭蕉が10年ほど過ごした地に江東区芭蕉記念館がある。隅田川沿いにある記念館内の日本庭園は、まるで芭蕉の世界観を表しているようだ。


 「古池や 蛙飛び込む 水の音」などの句で知られる芭蕉(本名・松尾宗房)は、1644(寛永21)年、「伊賀忍者」で有名な伊賀国・上野(三重県伊賀市)に生まれた。


芭蕉稲荷神社にある「芭蕉庵跡」の石碑。
カエルの置物があちこちに
芭蕉稲荷神社にある「芭蕉庵跡」の石碑。カエルの置物があちこちに

 伊賀で俳諧をたしなみ、29歳の時に60の発句(ほっく)を評価した選集『貝おほひ』を伊賀市にある上野天満宮(菅原神社)に奉納。これをきっかけに、当時の文化発信地だった江戸・日本橋(東京都中央区)に移り住んだ。1678(延宝6)年、35歳で名実ともに俳諧の師匠になったという。


 この頃の江戸俳諧の世界(俳壇)では、弟子の数が師匠のステータスで、少し変わった句を詠むことがブームだった。芭蕉も優秀な弟子を持って名声を築いたが、37歳の時に深川(東京都江東区)へ引っ越してしまう。


深川へ「引きこもった」理由

 

 当時の深川は、日本橋から隅田川を渡った湿地帯で、江戸の中心部に比べると田舎同然の場所だった。水質は悪く、小舟でやってくる水売りから水を買わなければならないほどであったという。


 すでに有名人だった芭蕉がここへ「引きこもった」理由は諸説あるが、見栄の張り合いが続く江戸俳壇と一線を画したい気持ちがあったと言われている。移り住んだ翌年に弟子の李下(りか)からバショウの株を贈られ、これが「芭蕉」の俳号(俳諧のペンネーム)の由来となった。深川の家も「芭蕉庵」と呼ばれるようになる。


 自らを「堰鼠(えんそ、ドブネズミ)」と呼び、侘しい深川での暮らしから9年。1689(元禄2)年2月に「草の戸も 住替る代ぞ ひなの家」と詠んだ芭蕉は、芭蕉庵を人に譲る。この句の意味は「(芭蕉が)1人暮らしをしていた寂しい家も、次はひな人形を飾るようなにぎやかな家族がはいるのだろうか」といったところだ。庵を出て約1か月、近所に仮住まいした後、弟子の曽良を連れて有名な紀行文『おくのほそ道』の旅に出たのであった。

採荼庵跡の芭蕉像
採荼庵跡の芭蕉像

ぶらり深川、芭蕉ゆかりの地


 芭蕉庵の跡地付近に建てられた江東区芭蕉記念館には、芭蕉の句碑、芭蕉庵を模した祠(ほこら)のほか、展示室(有料)には芭蕉関連の史料を展示している。記念館の近くには隅田川を眺める芭蕉像がある史跡庭園や、芭蕉稲荷神社がある。この神社は、芭蕉が持っていたとされる石のカエルが出土した場所でもある。


 芭蕉稲荷から清澄白川駅の方に向かうと、『おくのほそ道』出発直前に仮住まいした弟子の別荘「採荼庵(さいとあん)」跡がある。旅支度姿の芭蕉像が出迎えてくれる。


 市街地化された今は、旅姿の芭蕉像の目の前を自動車が行き交う。深川で芭蕉の足跡を巡った後は、近場で名物「深川めし」が出るお店を検索して、堪能するのもいいかもしれない。

(中西 啓)

注釈

*:発句(ほっく)
連歌(複数人で5・7・5と7・7の句を繰り返すもの)のうち、始めの句(5・7・5)のこと。発句を連歌から独立した「俳句」という形式で提唱したのは、明治期の歌人・正岡子規だった。

芭蕉のゆかりの地(クリックすると拡大します)
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