連載 次の60年へ 躍動するテレビの変遷史

2014/5/22

第4回 衛星中継の活用

東京オリンピックの放送やハードの値下げを経てようやく日本でもお茶の間に普及してきたカラーテレビ。テレビの軌跡を追う「躍動するテレビの変遷史」第4回はテレビの魅力を一層高めた衛星中継の発展に迫る。

衛星中継の活用


 1964年の東京オリンピックでは、米国のNASAが打ち上げた「シンコム3号」がテレビ中継に使われていたが、衛星を使ったテレビ中継を世界的に推し進めたのは米国のケネディ大統領によるところが大きい。


 ケネディ大統領の主導で、米国は衛星における国際会議を何度も開催した。日米間においても1963年に通信衛星「リレー1号」を使った初の衛星受信実験が行われるなど大きく進展する。しかし同年ケネディ自身は凶弾に倒れてしまう。ケネディ暗殺のニュースは衛星を経由し米国とほぼ同時に日本に伝えられ、奇しくも衛星を使った日本への初のテレビ中継となった。翌年の1964年8月、衛星によって通信技術の国際的な向上を図る組織「インテルサット(国際電気通信衛星機構)」が日本を含む11ヶ国によって立ちあげられる。


 このインテルサットによる最初の通信衛星「アーリーバード」の打ち上げは、1965年に行われ、米国と欧州間のテレビ中継が行われた。さらに「インテルサットII号」が打ち上げられると日本でもこの衛星を利用した中継が行われた。NHKは1966年、大晦日の番組「行く年くる年」でニューヨークの歳末風景の中継を実施。衛星を使った中継シーンはテレビのメディアとしての魅力を一層高めた。NHKと民放は、海外の放送局との関係を構築し、衛星中継の可能性を最大限に活用しようとした。


日常化していく衛星中継


 このインテルサットII号の打ち上げを契機に、海外からのテレビ中継が可能となり、国際中継は日常化していく。しかし、課題もあった。まず衛星の利用料金が高額で放送局にとって大きな負担となった。東京からニューヨークまで放送しようとする30分間で207万円(1967年当時)もの費用がかかった。


 さらに容量の制限もあった。インテルサットII号の伝送容量は電話で240回線分、テレビでは1チャンネル分が限度。衛星の用途がテレビ中継以外にも様々にあることを考慮すると放送に使える余裕はわずかだった。こうした課題は1969年にインテルサットIII号が太平洋、大西洋、インド洋に次々と打ち上げられることで解決が図られていく。


 また、それまで衛星を使ったテレビ中継は海外から日本の放送局に映像が送られる機会が多かった。しかし「よど号ハイジャック事件」「沖縄返還」など、日本で国際的に関心の高い事件が起きると、日本の放送局から、海外に情報を発信する機会も増えていく。

 

月面着陸の様子を中継


 1969年7月21日。アポロ11号による月面着陸は、衛星中継の価値を急激に高めた。アームストロング船長の月面第1歩は宇宙船が積んだカメラが映した。走査線の少ないカメラだったため、映像はぼやけていたものの、大きなインパクトを持つものだった。


 この時、どのように中継が行われたのだろうか。まず、月から発信された映像と音声の電波は、約38万キロ離れたオーストラリアのパークス電波天文台の巨大パラボラアンテナで受信される。オーストラリアで受信された映像は太平洋上にあるインテルサットIII号を介して、地上の各局へ配信。さらに地上局のネットワークから、最終的には世界47か国で放送されることになった。日本では、衛星経由で送られた月面の映像と音声は、KDD(現在のKDDI)が建設した茨城地球局が受信し、その後、東京タワーから一斉に各局に分配され、お茶の間に届けられた。

アポロ11号からの中継
アポロ11号からの中継

 「衛星」を使った取り組みは以後の放送において大きな柱となっていく。1965年、NHK会長の前田義徳氏は記者会見で「NHKの課題である難視聴地域を解消させるため、放送衛星を使った番組配信を行う。そのための開発に乗り出す」と伝えた。時代の流れは「衛星放送」へと進んでいくこととなる。

(山下雄太郎)

>>衛星は「放送」に活かされる時代に


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