連載 次の60年へ 躍動するテレビの変遷史

2014/3/27

第2回 白黒テレビ放送開始

インターネットの台頭によってテレビの影響力が懸念されるとはいえ、まだまだテレビが必要とされているのが実情だ。テレビ放送が始まって60年という節目の年が過ぎた今、これまでのテレビの軌跡を振り返る。前回は高柳健次郎氏がニプコー円板の原理を用いて、ブラウン管テレビの開発に成功するところまでを紹介した。

ツヴォルキンのアイコノスコープ


 高柳氏が開発した電子式ブラウン管テレビは受信が機械式、送信が電子式というもので、正確には半電子式と呼ばれるものだった。その後1933年に米国RCA社に在籍するロシア人技師・ツヴォルキンがアイコノスコープという、全電子式テレビを普及させるきっかけとなった仕組みを開発する。ツヴォルキンは映す画像の光量を電流に変え一旦コンデンサに蓄積させ、送信時に放出する方式を考案した。


 この方式を採用したアイコノスコープは送信側として使う真空管のなかに、セシウムを塗った雲母板とコンデンサを配置する。この雲母板にレンズを通して画像を投影すると、光量に応じて雲母板に設置したコンデンサに電荷が蓄積される。この蓄積された電荷に電子ビームを放射すると、光量に応じた電流が流れて画像信号に変換するという仕組みだ。

アイコノスコープの仕組み
(クリックすると拡大します)
アイコノスコープの仕組み (クリックすると拡大します)

 高柳氏もこのアイコノスコープを開発。日本でも全電子式テレビが誕生する運びとなり、テレビ放送が現実味を帯びてきた。


幻のオリンピック中継と戦争の影響


 高柳氏はその後、ラジオ放送で国のメディアの根管をなしていたNHKに出向することになる。NHKは当時、テレビの実験に必要な多くの人材と研究費を備えており、高柳氏は研究にまい進することができた。


 この頃世界では、テレビ放送開始に向けて動きが活発化していた。英国では1929年に英国放送協会(BBC)がテレビの実験放送を開始。1935年にはドイツでも定期試験放送が開始され、ベルリンオリンピックのテレビ中継が行われた。一方、日本でもNHKが世田谷の砧村(今の世田谷区砧)に技術研究所(技研、現在の放送技術研究所)を設立し、100mの三角鉄塔のアンテナが建てられた。この研究所は実験用スタジオ、東京一円へ放送することができる設備をもち、テレビ研究の拠点として機能するようになる。


 実験放送は、様々な内容のプログラムが組まれ、1週間に1、2回行われた。例えば東京市内のきれいな画像が得られるよう受信機の感度を上げること、またどんなものでも映せるようにすることなど改良が重ねられた。こうした取り組みにより、日本のテレビ技術は世界と劣らないほどの高水準にまで達していく。


 また設備面で充実が図られると、放送内容も充実させる必要があった。1940年の東京五輪開催が決まると、テレビ中継も計画される運びとなる。着々とテレビ放送の開始を目指す日本だったが、1937年に日中戦争が勃発。国際的に孤立するようになり、英国や米国との関係も悪化。テレビの実用化に向けた研究も、世間の風当たりが次第に強くなる。さらに追い打ちをかけるように、日本は東京五輪の開催権を返上。放送計画は取りやめとなってしまった。


 終戦後も、GHQによる規制が敷かれた。GHQは「テレビの研究は、電波兵器のような軍事用の研究とかかわりが強く好ましくないため、無線・有線に関わらず全面禁止とする」と発令。高柳氏本人も、「軍部関係の仕事に従事した者は、通信や放送などの公共事業に携わってはいけない」と命令され、研究を中断。NHKから日本ビクターに転籍したあとも、テレビ研究の禁止の解除を訴え続けることになる。


白黒テレビ放送開始


 こうした戦争による影響がやわらいできたのは1946年。高柳氏ら国内の研究者や海外の研究者の働きかけが実り、NHK放送技研はテレビの研究再開にようやくこぎつける。さらに1950年、技研からの実験電波を日本橋三越にて受信するなど、本放送を見据えた実験が行われるようになる。


 ブラウン管テレビもようやく市販化・量産化の目途がつき、1953年にはシャープより待望の国産第1号白黒テレビ「TV3-14T」が発売。そしてついに同年2月1日、NHKがテレビの本放送が開始した。

国産第1号の白黒テレビ TV3-14T
(提供:シャープ)
国産第1号の白黒テレビ TV3-14T(提供:シャープ)

 これまでNHKが中心となって進められてきたテレビ放送だったが、民放開始の動きも活発化する。読売新聞社主の正力松太郎氏は、民間のテレビ放送を設立する計画を発表。テレビ局(日本テレビ放送網)の免許を申請し、民放として初のテレビ放送を1953年8月に開始した。プロ野球・巨人対阪神の試合中継が最初の番組だった。


 当時はテレビが高額のため、駅や公園に設置された街頭テレビに多くの人々がその前に集って鑑賞するスタイルが一般的だった。


 戦争の中断を経て、苦難の末にようやく放送が行われた。高柳氏がイの字をブラウン管に映してから28年。テレビ放送による映像が日本でもようやく視聴者に届いたことになる。

(山下雄太郎)

>>東京オリンピックを経てカラーテレビ全盛期へ


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