連載「人間VSコンピュータ 10番勝負!」

2013/5/30

チェス対決・第3回 チェスマシン「ディープ・ブルー」誕生前夜

「コンピュータと人間、一体どちらが強いのか?」「人間を絶対的に凌ぐことは可能なのか…?」――。誰しもが持つ好奇心を満たすべく、これまで様々な研究と対決が繰り広げられてきた。現在も続く勝負の行方を、チェス、将棋、囲碁などのボードゲームでの歴史からたどることにしてみる。

 第3回では、1997年にチェスチャンピオンを負かしたコンピュータ「ディープ・ブルー」に触れる前に、ディープ・ブルーが生まれるまで、コンピュータ開発の歴史とチェスとのかかわりを振り返ってみたい。

アラン・チューリングとクロード・シャノン

 英国が生んだ天才数学者、アラン・チューリング(1912年~1954年)。彼は1936年(1937年とも)に、「計算可能な数について」という論文を発表している。この中で彼は、テープと、それを読み書きするヘッドを組み合わせた自動計算機「チューリング・マシン」を考案。ある一定の法則に従って答えが得られる計算は、このチューリング・マシンで行えるというものだ。


 ちなみに、プログラムを記憶装置に蓄えておき、順番に読み込んで計算を行うという、現在のコンピュータの仕組みは「ノイマン型」と呼ばれるものである。この基本を設計したと言われるジョン・フォン・ノイマン(1903年~1957年)に由来している。「チューリング・マシン」は、この「ノイマン型」と同等に現代コンピュータの基礎概念の一つとして、広く功績を認められている。チューリング・マシンは理論上のもので、実装までには至らなかったものの、この理論を含めたチューリングの数学やコンピュータにおける功績は、現在でも優れたエンジニアに贈られる「チューリング賞」の名前にうかがうことができる。


 第2次世界大戦中にドイツ軍が使用していた暗号機・エニグマの解読にも一役買ったチューリングは、自動計算機を使ったチェスにも興味を示していた。大戦後の1952年、チューリングは同僚を相手に、紙に書きためたプログラムでチェスを行う。相手が指した手に対して、チューリングは自分の意志によらず、作ったプログラムの通りに、丹念にたどりながら駒を進めた。


アラン・チューリングの銅像
アラン・チューリングの銅像
 試合中、チューリングの作ったプログラムは、命令通りにすると、チューリング自身が指したくない手を選んでしまうなどして、チューリングを悩ませたという。結局、29手を同僚が指したところで試合終了。チューリングのプログラムは簡単に破れてしまった。


 チューリングと同時期の数学者、クロード・シャノン(1916年~2001年)もチェスとコンピュータについて興味を持った1人だ。シャノンは1950年の論文「チェスを指す機械」で、以下のように述べている。


 「まず、チェスを指す機械から始めるのは、いくつかの理由から理想的である。この問題は、許された操作法と最終目的についてはっきりと定義がなされている。それは自明な問題というほど単純ではなく、満足のいく解決法を得るのに難しすぎるということもない」(『謎のチェス指し人形「ターク」』より)。


 駒を動かすためのルールが明確で、キングを取ることが目的になっているチェスのコンピュータ技術研究が、他の実用的な分野にも応用ができるとシャノンは考えた。


ディープ・ブルーまでの不思議な連鎖

 チューリング、シャノンという数学者たちが自動で計算する機械にさせようとしていたチェス。「紙に書いたルールに沿って人間が動かした」とはいえ、チューリングの作ったプログラムは、コンピュータチェスの灯と言える。


 チューリングのコンピュータ理論は、19世紀のチャールズ・バベッジ(1791年~1871年)の解析機関(複雑な計算を行う機械)にヒントを得ている。バベッジの考えた解析機関は、膨大な計算を簡単に解くことを目的としていたが、この機械があればチェスを指せるともバベッジは考えていた。そのきっかけは、彼が間近で見た、自動でチェスを指す人形「ターク」だったのである。


 チェスとコンピュータ(機械)の関係は、100年以上途切れることなく続いてきた。1950年代は、「人工知能(AI)」という言葉が生まれ、ルール通りに指すことができるチェスコンピュータも登場する。ノイマン型のコンピュータは、ほどなくハードウェア・ソフトウェアともに著しい成長を遂げる。こうして先人たちが描いた夢の道筋にできたのが、IBMの開発した「ディープ・ブルー」だった。

(中西 啓)

>>第4回、ディープ・ブルーとカスパロフ、それぞれの軌跡


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