寄稿
情報戦を制した戦国武将たち
作家 加来耕三
2012/1/16  1/2ページ

【第5回】遅れて来たがゆえの勝利・伊達政宗

加来耕三氏 加来耕三氏
歴史家・作家。1958年生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。1983年より著作活動に入る。著書に『徳川三代記』(ポプラ社)、『将帥学』『後継学』『交渉学』『参謀学』(いずれも、時事通信社)『加来耕三の感動する日本史』(ナツメ社)など多数。最新刊に『平安のゴッドファーザー 平清盛』(経済界・経済界新書)がある。

インターネット全盛のご時世、GoogleやAppleなど、情報のプラットフォームを握ったものが世界を握っています。日本はこの現状に出遅れている感が否めませんが、これまでの日本史上の人物で情報をうまく活用して成功した人物はいなかったのでしょうか?

 日本が騒然としていた戦国時代、様々な戦国大名や武将がしのぎを削りました。彼らの情報活用術に学ぶべきところを見出すべく、作家の加来耕三氏に解説していただきます。最終回となる第5回は、東北に覇を唱えた大名・伊達政宗です。

東北という立地だからこそ生まれた英傑・伊達政宗
東北という立地だからこそ生まれた英傑・伊達政宗

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豊臣政権下の政宗

 若くして奥州の覇者になった伊達政宗は、出羽国米沢城(現・山形県米沢市)に、伊達輝宗の第一子として、永禄10(1567)年8月3日に生まれている。織田信長が尾張桶狭間(現・愛知県豊明市または名古屋市緑区)において、東海一の太守・今川義元を奇襲し、華々しく戦国のデビュー戦を飾ったのが永禄3(1560)年のこと。


 やがて相見える豊臣秀吉は30歳、徳川家康は25歳の年上である。


 そのためであろう、


「もう少し早ければ、あるいは天下が取れたかもしれぬのに――」


 と、政宗は器量にめぐまれながら、運が悪かった、との論旨をよくみかける。はたしてそうであったろうか、と筆者は常に疑ってきた。


 「中央に比べて50年は遅れている」といわれた当時の奥州は、政宗の成人する過程でようやく、戦国初頭の群雄割拠の時代を迎えていた。


 政宗は父から、18歳で家督を譲られたものの、1年余りにしてその父を、和議を申し入れてきた畠山義継の不意討ちによって自らが殺さねばならない悲劇を経験する。父の享年は42であった。


 父の期待を背負って、奥州平定に邁進する政宗に、天正18(1590)年、小田原征伐に向かう豊臣秀吉から、出陣の命が下った。政宗は遅参するマイナスと後顧の憂いを残すマイナスを考え、まずは反目する弟の小次郎を討っている。


 政宗は以前から、徳川家康とは好(よしみ)を通じていた。一方、中央で誕生した豊臣政権に対しても、僻地の奥州ゆえに情報収集をおこたらず、可能なかぎり天下の動静に目を光らせていた。奥州は中央からすれば遠国であったが、政宗はむしろ距離を置いて分析できるプラスを思った。


 遅参への対策として政宗は、秀吉の派手好みの性格を考え、「死装束」(しにしょうぞく)で自らをアピールし、かえって秀吉を感動させる。結果、領土は削られたものの、70余万石の大名として残ることができた。


 奥州の一揆を裏であやつり、証拠となる真筆の書状を掴まれてすら、鶺鴒(せきれい)の花押=自らのサインに、針で穴をあけていなかったことから、ニセ物だといいはり、窮地を脱している。


 天下人・秀吉が、この世を去ると、次世代の天下を狙う家康から、その六男・忠輝の室に、自らの長女・五郎八(いろは)をもらいうけたい、との申し出がきた。


 政宗は、家康へ恭順の姿勢を示しながら、自分の寿命の長さに賭ける。

>>晩年まで野望を捨てなかった政宗


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