寄稿
情報戦を制した戦国武将たち
作家 加来耕三
2011/12/5  1/2ページ

【第4回】名補佐役の才智とその限界・直江兼続

加来耕三氏 加来耕三氏
歴史家・作家。1958年生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。1983年より著作活動に入る。著書に『徳川三代記』(ポプラ社)、『将帥学』『後継学』『交渉学』『参謀学』(いずれも、時事通信社)『加来耕三の感動する日本史』(ナツメ社)など多数。最新刊に『関ヶ原大戦』(学陽書房)がある。

インターネット全盛のご時世、GoogleやAppleなど、情報のプラットフォームを握ったものが世界を握っています。日本はこの現状に出遅れている感が否めませんが、これまでの日本史上の人物で情報をうまく活用して成功した人物はいなかったのでしょうか?

 日本が騒然としていた戦国時代、様々な戦国大名や武将がしのぎを削りました。彼らの情報活用術に学ぶべきところを見出すべく、作家の加来耕三氏に解説していただきます。第4回は、桶狭間の戦いの年に生まれた「愛」の兜でおなじみ、知将・直江兼続です。

直江兼続像。周囲の情勢を客観的に判断した 米沢市上杉博物館所蔵
直江兼続像。周囲の情勢を客観的に判断した 米沢市上杉博物館所蔵

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外交工作で内乱を制す

 カリスマ性の高いトップが急逝し、その後継者が2人いたとする。


 一方の実家は裕福で人物も人気者。他方は、さほどの支持者を持たず、人柄も無口で他人の受けはよくない。形勢は明らかに、前者が優勢である。


 さて、後者の補佐役の立場にある者は、どうすればこの現実を逆転して、次期トップの座を射止めることができるだろうか。


 天正6(1578)年3月13日、脳出血で名将・上杉謙信が、49歳でこの世を去った時の、上杉家がまさにこの状況にあった。前者が謙信の養子・景虎。父は関東の覇者・北条氏政であった。後者は謙信の実姉の子で、養子の景勝である。そして直江兼続は、景勝の補佐役の立場にあった。


 上杉家は謙信の魅力で、のちの石高にして200万石以上を実質支配していたが、2人の養子には共に、それだけの器量はない。話し合いで妥協し、上杉家を運営してはどうか、との意見も出たが、兼続はこれを拒絶した。


 妥協の結果、政令二途を生じれば、それこそ上杉家の存立は内戦以上に混乱を生じ、長期的に分裂し、統一は危うくなる。


 「当面の安泰よりも、断固として戦い、将来に禍根を残すべきではない」


 兼続は冷徹なまでに、戦国の世情を見きわめていた。


 そして勃発したのが、世にいう“御館(おたて)の乱”であった。当初、旗色は圧倒的に景虎側が有利だった。なにしろ、実家の援助は絶大であり、一時期、追い詰められた景勝は、兼続を除いて家臣のなかに、信用できる者がいなくなるまでの窮状に陥っている。


 兼続は懸命に、累卵の危機にある上杉家中の動揺をしずめる一方、情報収集により、“外圧”を利用した同盟国外交を押しすすめる妙手に出た。


 具体的には、甲斐の武田勝頼(信玄の後継者)に誼(よしみ)を通じ、北条氏を牽制してもらうべく、外交を展開したのである。


 「兼続はおかしくなったのではないか」


 景虎派の将が聞けば、大口を開けて笑ったであろう。


 なにしろ天正5(1577)年正月、勝頼は北条氏政の妹を、自らの室に迎えている。相甲同盟の証しであった。北条氏を敵に回すはずがない。現に勝頼は北条氏との同盟から、景虎支持の名目で越後へ兵を出していた。


 兼続は勝頼の本性を見抜き、「利」で動く人物だと判断。さっそく、金1万両と東上野(ひがしこうずけ)を譲るので、味方してはくれまいか、との条件を提示した。


 この時、勝頼は織田・徳川連合軍に敗れ、多くの有能な武将を失い、武田家は再建途上にあった。軍資金は、のどから手が出るほど欲しい。加えて、いまここで景勝を助け、景虎を討てば、先代の信玄でさえ成し得なかった越後国の併合も可能となる。そうなれば今一度、無敵の甲州軍団を再建し、“天下布武”に迫る織田信長と、改めて一戦を交えることができるかもしれない。己れの将来を、都合のいいように解釈した勝頼は、心ある部下の制止にも耳を貸さず、義弟にあたる景虎を討つ側にまわってしまった。


 形勢は逆転した。勝頼の妹・菊姫が、今度は景勝と婚約。だが、景勝・兼続主従は越後を平定するや、頬被りをして恍(とぼ)けてしまい、誓いは守られなかった。勝頼は、ついには織田軍によって滅ぼされてしまう。

>>窮地に陥ってもトップを支える兼続


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