ぶらり東京散歩 こんな所にあった! 歴史的事件
赤穂浪士討ち入り(1703)

ぶらり東京散歩 こんな所にあった! 歴史的事件

赤穂浪士討ち入り(1703)

2014/12/11

 主君・浅野長矩の忠臣四十七人が、無念を晴らした赤穂浪士討ち入り事件を元に作られた忠臣蔵。旧暦の12月14日に討ち入りがあったため、年末になるとこの人気の物語は毎年のようにドラマや検証の対象になる。未だに多数残る忠臣蔵の跡を今回の東京散歩では追いつつ、毎度悪役として語られる吉良の肩を持ってみる。


敵討ち? 殺人事件??


 討ち入りを果たした後、四十七士の扱いについては、当時の世間を揺るがす論争になったという。それは赤穂浪士の吉良義央邸(現在の墨田区・両国)への討ち入り事件が、単純な敵討ちと言えなかったということが起因になる。敵討ちをネットで検索してみよう。


 敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世日本の制度(「敵討」『ウィキペディア日本語版』2014年12月10日(水)AM10:58 UTC URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/敵討の冒頭より引用)


 尊属とは、自分よりも上の世代にある「血族」のこと。つまり敵討ちとは、世代がより下の親戚が行うものなのである。つまり四十七士が行った敵討ちは、実はこうした一般的な敵討ちの定義からははずれている。


 そもそも敵討ちと言っても吉良が浅野を害したわけではない。江戸城内の松之大廊下で刀を抜いたのは浅野側。そして吉良側はそれに対して刀を抜いていないため喧嘩両成敗にならなかった。こうした状況から裁きの結果としてあくまで「将軍から自害を命じられた」のだ。

皇居内にある松之大廊下跡
皇居内にある松之大廊下跡

 江戸城内、つまり「殿中」は将軍の居城であり、刀を抜くことそのものが大罪だ。さらにこの日は朝廷側の使者をもてなす大事な儀式中。当時、将軍だった徳川綱吉の怒りは相当なものだったという。浅野はこうした結果、死罪を言い渡されたに過ぎず、吉良を敵と言ってしまうのは何だか腑に落ちない。


 よく言われる吉良が浅野の悪口を言ったために、それに激高した浅野が切りつけたという話については、資料がないため確証が持てない。当人の証言としては、浅野は「遺恨があって切りつけた」、吉良は「覚えがない」とは話していたようだ。

墨田区両国にある吉良邸跡
墨田区両国にある吉良邸跡

 こうしたところから高家のため、礼儀作法にも通じていた吉良から見て、浅野が何らかの失態を犯し、それを指摘したというのが一般的に説として取られる。あるいは礼儀作法を教えた吉良に対して本来渡すべき「授業料」をケチっていたとも言われている。ともあれ、綱吉の怒りに触れた浅野が即日切腹を言い渡されたため、刃傷沙汰そのものの取り調べがほとんど行われず、本当のところは闇の中。こうした話はどこまでいっても憶測にしかならないのは残念な限りだ。


話が受けやすかったのか


 現在、吉良邸討ち入り事件の話の核として知られている事実は、事件のあとに創作された物語「仮名手本忠臣蔵」の内容だ。もちろん史実をベースに作られた話であることには間違いはないが、物語を面白くするための脚色が多くされている可能性には当然、言及すべきだ。


 史実はともかく忠臣蔵のストーリーラインが面白いからこそいまだに語り継がれていることは間違いないだろう。物語構造からの分析を挟むとまた別の視点が見えてくる。忠臣蔵が世間で絶賛され、四十七士も切腹という名誉を保たれた形になったのは儒教の影響があると言われている。つまり上への忠義に命をかける思想だ。幕府は儒教を軸とした忠義を推進していた立場、主君のために命を張った赤穂浪士を無下にはできなかっただろう。

港区高輪・泉岳寺にある四十七士の墓
港区高輪・泉岳寺にある四十七士の墓

 また民衆の反幕府の感情が浸透に影響したとも言われる。吉良が格の高い家柄で、浅野が地方の若殿。つまり民衆の反幕府感情も大きいだろう。吉良家は、この事件からまもなくおとり潰しになっている。事件全体が体の良い民衆の「はけ口」として幕府に利用された…というのは、うがちすぎだろうか?


 日本人に長く受け継がれる「判官贔屓」…立場の弱いものの方に感情を寄せる傾向も無関係ではないだろう。立場が弱いものが、立場が強いものに対して見事、復讐を完成させる物語は痛快だったに違いない。考えれば考えるほど、面白い忠臣蔵。とりあえず史実は一旦外に置いて、架空の四十七士、架空の吉良、架空の浅野の出来事と、今年も忠臣蔵のお話を楽しんでみることにしよう。

(井上宇紀)
忠臣蔵史跡(クリックすると拡大します)
(クリックすると拡大します)