【第5回】遅れて来たがゆえの勝利・伊達政宗
慶長5(1600)年6月18日、家康は、会津に入った上杉景勝を征伐すべく、軍を率いて伏見城を進発、東下の途につく。石田三成はそれを待って挙兵。家康打倒をスローガンに西軍編成に着手した。
奥州では西軍荷担の上杉軍が出羽の山形へ侵攻、東軍方の政宗は山形城内にいた母のことと、戦略上の見地から、伯父・最上義光(よしあき)の願いを容(い)れ、伊達政景を名代として救援に向かわせることにした。このとき、片腕の小十郎景綱は、
「この際、最上は捨てて、直江(兼続)にくれてやればよろしかろう。その上で疲れているところへわが軍が出兵すれば、最上領をそっくりそのまま手に入れられるではありませぬか」
と進言した。一説に政宗は、援軍に無理をせぬよう、必要以上に上杉家を刺激せぬよう言い含めたともいう。こうした戦局のなかへ、9月15日に行われた関ヶ原の戦いにおける、東軍勝利の知らせがもたらされた。
10月1日から上杉勢の撤兵と、これを追撃する伊達・最上連合軍との戦いが展開されたが、この両軍の激突が奥州における最大の“関ヶ原”となった。
この年、34歳の政宗は、東軍勝利の暁には100万石を与える、との家康の約束手形を信じたが、ついには実現を見ず、得たのは併せて62万石にすぎなかった。しかし政宗は、その後も天下取りへの野望を捨てず、義息となった忠輝を押し立てて、あわよくばと政権を奪取すべく動いた局面もあった。
が、彼は決して無理はせず、冷静に時勢を読み、情報を収集し、自らの名声をあげる工夫をして、寛永13(1636)年5月、盤石となった徳川幕府を見つつ、その生涯を閉じた。享年、70。
筆者は思う。多くのハンディを背負ったがゆえの、政宗の半生は、情報戦中心となったのではないか、と。
【伊達政宗】1567年~1636年
大名の立場ながらも、窮地を脱するために自ら体を張る政宗。純白の死装束や、朝鮮出兵時の派手な軍装は粋な人、という意味の「伊達者」の由来になったと言われています。中央の政局を見極めるのみならず、政宗は海外貿易を考えて家臣の支倉(はせくら)常長をヨーロッパへ派遣しました。
さて、今回で加来先生の寄稿は最終回となります。これまで紹介した戦国武将たちは、窮地に陥っても自分を取り巻く状況を冷静に分析、時にはリスクを取って果敢に行動し、後世に名を残しました。それぞれの武将の生きざまを見ることは、現代の私たちがビジネスをする上でも決して無駄にはならないはずです。
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過去の寄稿
加来耕三氏 情報戦を制した戦国武将たち
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